以前、ニューヨーク・ハーレムのある教会で、一人の余命3か月と告げられた車いすに乗った女性を紹介されました。私は彼女の死生観に衝撃を受けたのです。
前回の記事で日本人の死生観には輪廻転生の考えを持つ人が多いということを書きました。そこで今日は私が20年以上前にニューヨークに住んだ時にハーレムの教会を訪れた時のことを書きますね。
恵まれない環境に生まれた人の救いの場
ニューヨークのハーレムに教会は180軒以上あると言われています。場所柄黒人の信者が多く訪れており、本場のゴスペルが聴けるとガイドブックでも紹介されています。20年以上前も同じく素晴らしいゴスペルが聴けました。私はキリスト教信者の知人に誘われて、そのハーレムの教会に通うことになりました。もともと人の信仰心には興味があったため、週一回教会に通い、信者たちと時間を共にし聖書を勉強する…。そんな生活を数か月間続けました。
ミサの中には懺悔(ざんげ)の時間があります。希望者は『過去の自分の過ちを発表し、それを乗り越えてここまで成長した。神に感謝する』という懺悔(ざんげ)から随喜(ずいき)の告白をします。そこで多かったものは過酷な環境なため犯罪に手を染めてしまった告白(窃盗、傷害、ドラッグなど)でした。週に一度自分の行為を振り返り反省し、正す場所があることは彼らにとって救いの場所であったと思います。
当時、市長はルドルフ・ジュリアーニ。
地下鉄のトイレを封鎖したり、
かなり街の治安は改善されたものの
まだまだ危険な地域はありました。
命が尽きたら幸せしかない死=幸せ
ある日、私は車いすに乗った一人の女性を紹介されました。『余命3か月』と医師から宣告されたといいます。私は言葉を亡くしました。どのように声をかければいいかわからなかったから。すると彼女は私の態度を気にすることもなく、「私はもうすぐジーザス(イエス・キリスト)の元に行けるのよ!!興奮しているわ!!」と大きな声で笑ったのです。そんな彼女を見て、さらに何という返事をしたらいいかわからなくなった私です。
死に関する受け止め方って人種というか信仰によってこんなにも違うのかと強く感じました。
信仰心は人を救い、人を救うと幸せになる
余命3か月の彼女の死生観に戸惑った私なのですが、人は信仰心を持つと救われると実感した出来事があります。
当時、ニューヨークで働いていた職場の同僚の娘さんには精神的な障害がありました。ある日、彼女の元へ病院から電話がありました。娘さんが地下鉄で暴れて血だらけだったとのことでした。慌てて病院に向かった彼女に後日話を聞くと、シッターさんが目を離した隙に娘さんが家を出て地下鉄でパニックになり暴れてガラス戸を蹴って血だらけになっていたとのこと。
その時に娘さんを落ち着かせて人に指示をしたり応急処置をしてくれた人がたまたま通りかかった黒人の熱心なクリスチャンだったということです。「彼がいなかったら、娘はどうなっていたかわからない」と感謝していました。
彼は同僚の娘さんを助け、同僚を助けました。彼のおかげでとても幸せになりました。そして彼もまた同僚やお子さんを助けたことにより、さらに幸せになりました。誰かことを想い、誰かのために行動すると幸せな気分になります。その彼がそれまでどのような生い立ちでどのような生活を送ってきたかは知りません。ただ信仰によりその時の彼に至ったことは間違いありません。
人を助けると幸せになる
人をためにに何かをすると自分が幸せになります。気分が良くなるのです。
それって、「私っていい人なんだよ!」って人に思ってもらえるから
気分がよくなるんじゃない?
それもあるかもしれないけど、
単純にいい事をすると気分がよくなるの。
それは穢れ(けがれ)が消えていくからなの。
いい事をすると気分がいい。自分の幸せが増えていく。単純だけどそうなのです。それは穢れが消えていくように目に見えないけれど浄化されていってスッキリするのです。もちろん誰にでもいい人に思われたいという気持ちがあることも確かです。ですが、それでも良いのです。どんな気持ちであってもいい事をしていることに変わりはないのですから。やがて単純にいい事をすると気分がよくなるという感覚がよくわかるようになります。
できるだけ人のためにって思うんだけど、恥ずかしい気持ちもあるな。
誰かの目が気になって恥ずかしい人は、さりげなくいい事をしましょう。本来はさりげなく人のために働くことは素晴らしいこと。先ほども言ったように誰しも自分を認めてもらいたい気持ちがあるものです。震災後のボランティアについても、人と対面して直接感謝される場所には人が集まって、裏方にはなかなか人が集まらないと聞いたことがあります。ですが、人から感謝されたいという理由でも人を助けること自体が素晴らしいのです。どんな気持ちであれ徳を積み、カルマの解消につながっています。
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